『しずちゃんさようなら』はそういう話ではない
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酷すぎる。
なんなのこれ。
のび太は何に絶望したか
藤子不二雄がこの短編で何を描いているのかというと、のび太は恋愛主義者なんだけど、しずかちゃんはヒューマニストであると書いてるんですよね。しずかちゃんはのび太が好きだから恋愛感情で助けにくるんじゃないんですよ。「友だちだもの」という理性で吐き気をこらえて嫌悪感の中を突っ込んでくる。
— cdb (@C4Dbeginner) 2017年7月27日
はあ~~~~あ?
のびたが恋愛主義者????
この話はしずちゃんがヒューマニストならのびたもヒューマニストですよ?
のびたがしずちゃんと縁を切ろうとした(自殺しようとした)のは
現状ダメダメな自分の将来を悲観したから。
「ダメな自分に巻き込んで不幸にしてしまうからしずかちゃんと距離取ろう」って決意したわけですよ。
これのどこが恋愛主義?
自分の恋愛感情を押し殺してでもしずかちゃんの幸せを優先したいんだからヒューマニストでしょ。
たとえば、
のびたに恋愛上の絶望があって、それで悲観して自殺を図り、
しずかちゃんがヒューマニズムで突っ込んできて自殺を阻止したって構図なら
「のびたが恋愛主義者で静香ちゃんがヒューマニストという対照構成なのだ」っていうid:cdb氏の読解はなりたちますよ?
のびたが「最近しずかちゃんが冷たくなって出来杉とばかり仲良くしていてもうダメだー」っていう自殺を図ったとかならね?
でもそうじゃない。
のびたは恋愛上の絶望なんかしないから。
のびたは恋愛では勝ち組
なんで揃いも揃ってid:cdb氏の誤読解に突っ込めないのかと不思議だったけど、
たぶんみんな『ドラえもん』の前提をはっきりと理解してないでしょ。
のびたはしずちゃんと結婚するんですよ。
それはもう決まってるの。
ドラえもん&セワシという強力な時間犯罪者がバックについててね。
グロい話で、のびたからすればしずかちゃんが手に入ることはもう確定してるんですよ。
少なくとものび太もドラえもんもそう思ってるし、だから「しずちゃんさようなら」の冒頭でものびたは自分がしずちゃんと結婚するのは当然のこととして話を進めてるでしょ?
のびたは恋愛に関して絶望したのではなく
自分のダメさに関して絶望したのです。
しずかちゃんが好きって言ってくれないからヤケになったのではなく、
しずかちゃんを迎えても幸せに出来る気がしないのでヤケになったのです。
それで部屋で服毒してたらしずかちゃんが突っ込んできていいましたよ。
「なんで諦めるんだそこで!」
修造です。
ラストには2つの意味があって、
単純にはそのまま読めば
「やっぱりしずちゃんは素敵だからまだ諦めきれないな」ってことであり
一連ののびたの行動を自殺の暗喩と取るなら
「自分を見捨ててはいけないと言うハッパを頂いたので生きよう」ということ。
どこにも恋愛主義とヒューマニズムの対照や衝突なんかありません。
そもそものびたは別に「自分と付き合ってくれないしずかちゃんなんて」とかそういうことは言わないし。2人の結婚の未来を自らキャンセルして出来杉くんという1番有望な知り合いに託して*1しずかちゃんの幸せを願ってるじゃないですか。自分勝手な独り相撲ではあるけど恋愛主義者だとか人道的愛に対立する存在のように言われなきゃならん人間ではないですよ。
まとめとして、言いたいことはひとつ。
フェミニズム論争に利用するための無茶読解でドラえもんをゆがめるのはやめて欲しいということ。
蛇足1
あともっと言えば、
未来にしずかからのびたへの恋愛感情が芽生えるのも
のびたがダメなことやってるところをしずかが助けて励ますエピソード*2からなので
『しずちゃんさようなら』自体がこの2人の恋愛関係の前奏みたいにもなっており
これが藤子不二夫による恋愛主義へのアンチテーゼなのだみたいな読みは
尚更疑問符がつきます。
(お友達だもの!はその時のしずかの真情ではありますがid:cdb氏はそれを素直に読みすぎかもしれない)
蛇足2
また、現代で女子から男子への「お友達」発言は距離を取る時の台詞ですが、大昔の漫画の台詞を現代と同じ感覚で読んで良いのだろうか。
『しずちゃんさようなら』が描かれた1980年頃の小学生女子から男子への「お友達」は普通よりずっと近い間柄であることを宣言する、踏み込みである可能性はないか?
これは自分の中でも確信ないし調べるのめんどくさいんだけど一応気になった可能性として。その時代に生きてた人とかのコメントが欲しい。
蛇足3
そしてのびたとしずかの関係は典型的なだめんず。
肯定されて満足して努力しやがらねえのびた。
(ラストで改心発奮して努力するようなのびたを決して描かない藤子先生のダメ人間への36度ぐらいのまなざし。)