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精神科医は怒りの処方箋すら書けない



低レベル極まりない。
あきれはてる。
精神科医というのは心の専門家のはずだが、それでこれだ。これは心の仕組みについて何もわかってないしなんら役立つソリューションも持っていないと自白しているようなものだ。


「怒りをコントロールする」等と豪語しながら怒りの仕組みも知らない。心の医者だと自称しながら基本的な疾病”怒り”の対処法も持たない。これで人の役に立つ仕事と言えるだろうか?


たとえば歯医者は少なくとも虫歯の仕組みぐらいは説明できるし、予防法を教授できるし、痛みのある歯の治療もまあまあ出来る。精神科医は自分の専門分野において歯医者ぐらいの能力があるだろうか?全然そう見えないのだが。


1.怒りの仕組み

無能力な精神科医に代わり、人がどのように怒るか・怒りの仕組みを説明する。
たとえば電車で足を踏まれたとする。
すると我々は「私の足を踏むなんて駄目じゃないか」「なんでこいつは人の足を踏むんだ」「どういうつもりなんだ」「他人を舐めてるのか」「こんな奴はどうせ〇〇に違いない」などとくだらない考えをものすごい速度で次々と回転させていって怒る。


ポイントはこれらの考えは全部事実ではない、事実と確認できない妄想であると言うことだ。しかも自動的に思考が始まっていて自分で思考開始にも気付いていない。これが心をコントロールできていないと言う。


一方で怒らない人はどう反応するか。
怒らない人は妄想をしない。事実を確認して終わりにする。
足を踏まれた瞬間に確かなのは踏まれた足の感触だけだ。
「痛み」もしくは「圧」。
おわり。
余計なことを考えない場合怒りようがない。


この説明をすると「なんかゾンビみたいな人間のことなのか」とか「思考を放棄しろと言うのか」という反発がおきやすい。その反応はわかる。現代社会では感情や思考が何よりも大事で人間らしいものであると徹底的に刷り込まれて育つから当然だ。


だがそんなスローガンを信じ込む前に、その感情や思考についてきちんと観察して検討したことがあるだろうか?それもしたことが無いのに感情や思考は素晴らしいとか大事とか言って信じ込んでるならそれは詐欺の被害者と同じだ。


たとえば自分自身の思考についてちょっと精査してみればいい。一瞬一瞬、ほんとにそんな大したこと考えてるか。瞬間瞬間何考えてるのかきちんとモニターする能力というのも実は訓練*1しないと得られないが、観察できるようになってみると人間は殆どろくなことを考えていない。考えてることが事実ですらない。であるにもかかわらず一瞬も休まず連鎖的に何かを考え続けている。これが人類の根本的病いだ。


どうだろうか。
怒りの仕組みについてごく簡単にだが一通り説明した。
なんか信用できないぞと思ったらなんでも質問してほしいし心のモニター方法についても興味があれば説明する。だが少なくともこれこれこうだと説明はした。精神科医がこの程度に怒りについて説明出来てるのを見たことが無い。
はてな精神科医も「適度にキレるのが怒りのコントロールだ」とか馬鹿なことしか言ってない。表層的な対症療法でしかないうえに間違っていて無益でしかも有害だ。


怒鳴る、キレるは論外として、表出しようがしまいがそもそも怒った時点で心のコントロールに失敗している。



2.「怒りを表出してコントロール」は本当か


1を読んだ今ならおわかりいただけるだろうか。
こんなのは全く馬鹿丸出しのとんでもない見解だ。


怒りをゴチャゴチャと加工していられず、放電のように手放してしまったほうがトータルでは望ましい、という場合はゼロではない。

この手のアホ言説が昔からあるが、「怒りを”適度に”表出させることでストレス解消」みたいな理論はそもそも根拠があるのだろうか。何かちゃんとしたソースなりがあるのだろうか。


怒りを噴出させたことでスカッとしたりよい結果になったりしたら人間の脳がどうなるかというと、怒りに繋がる回路が強化される。より怒るようになるのだ。当たり前だろう。ましてこのやぶ先生の甘言のように「君がキレるのは当然。いいことなんだよ」なんて誰かに肯定されながら怒っていたらそれはもうとんでもない人間になる。


政治運動なんかしてる人達を見てみればいい。大部分はいっつもいっつも怒っている。もうとっくに普通の人の一生分ぐらい怒って怒って憎んで憎んでいるのに、怒りがカラになるどころかさらに怒るようになっている。政治運動を始めたせいで異様に怒りっぽい人間に変わり果て、言葉も顔つきも思考も恐ろしい感じになったりする。


なんでそうなのかというと、間違った政治運動は怒りを肯定してしまっているから。それどころか、怒りが何か大事な原動力だとすら思ってるのだ。*2
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例えに使って申し訳ないが、こんなのパッと見で完璧な精神異常だろう。治療が必要だ。
足を踏まれたことでこんな風に怒る人がいたら誰でも「この人キチガイだ」と判断するのに、なんか政治的な名目があるとこういう人を肯定してしまう。政治運動、いやあらゆる「正義」こそがキチガイの温床ということだ。


怒る人は周囲にも迷惑だが、何より自分自身を破壊する。どんどん苦しくなるし、何より知性が台無しになってみるみる頭が悪くなる。はてな精神科医はそのていどのことにすら考えが至ってない。「正しい怒り」なんてたわけた概念がどれほどの猛毒か。患者に薬を出せず毒を出す人間に医師の資格は無い。

 怒りをコントロールするとは、怒りを抑圧することでも怒りをひたすら冷静にすることでもない。私なら、怒りを刺激するツボを回避するよう訓練されることだとも思わない。場の状況や相手の出方をキチンと見定め、最適なかたちで怒りの表出方法を選び、必要ならば、感情的な怒りの表出も厭わないのが、怒りがコントロールできている人だと私は思う。付け加えて、自分自身のストレス耐性や心理的圧迫を弁えて、そこまで勘案して怒りの表出手段や表出の程度を選べる人だとも思う。

こんなことしか言えないならもう精神科医なんかやめてほしい。内蔵の仕組みを理解してない人が開腹手術してはいけないのと同じように、心の仕組みがわからない人は心について人に助言などしてはいけない。



3.左派・リベラルの陥穽も怒り

馬鹿な記事なので馬鹿なコメントが寄ってきている。

怒りの表現がタブー化、あるいは冷笑の対象とすることは強者にとっても都合が良いと思える。 - binbocchamaのコメント / はてなブックマーク

いや逆でしょ。権力者への怒り・和を乱す怒りをタブーにしたがっている奴がいる。「批判なき政治」とかその典型。そういう奴は弱者への怒り・叩きは煽っている。 - grdgsのコメント / はてなブックマーク
これらは全くの了見違いで、怒りで行動する人を認めない社会は軽々に人の怒りに同調し尻馬に乗る社会よりもまともな社会だ。


現与党が政権を追われるべきなのにそうならないとしたらその理由は少なくとも「社会に怒りが足りないから」などではない。いい加減それを理解しないか。左派はどこかに「民衆の猛烈な怒りで一気呵成に物事が動く」という甘美なロマンを未だに抱き続けていないか。


怒りが恐ろしいのは、怒っているときかなり気持ちいいところだ。人間は生来怒りたがりだ。私私私。私は正しい。正しい私の怒りによって間違ったクズどもが叩きのめされて物事が正しくなるというイメージは本能的な快楽に沿っている。


敵を作って仲間と結束するときの怒りも高揚感や快楽がすごい。士気が上がり頭が悪くなり理性が麻痺し攻撃的になり敵を悪魔化しアンフェアになる。(こういうのはサルや原人がトライブ間で戦争をするときに有利に働く本能だったのかもしれない。まともな理性や慈悲やフェアネスはトライブが違うだけの相手を石で殴り殺すのには邪魔になる。)


理性はそんな快楽なんぞを疑うところから始まる。左派やリベラルは右派や保守より理性をこそ自負し研ぎ澄ますべき陣営だったはずが、怒りを肯定したのが運の尽き。快楽主義の馬鹿がこぞって参加したがるようになったし、まともな人でも参加するとあっという間に理性が台無しになって馬鹿化する魔の陣営になった。


いつも異常なキレ方をしていて、同じぐらいのキレを共有しないと参加できない陣営とか、ハードル高すぎだろ。新たに参加しにくい・外部から見たら嫌悪感の湧くムードを自分達で作っておきながら、その自覚も出来なくなっている。サルの戦争トライブはそういうものだ。



4.余談

言いたいことは言い尽くしたのでこれは本当に余計な話だがシロクマ氏について。

 そういう意味では、たとえば、どこかの病院の時間外外来で怒りをあらわにしている患者が「怒りをコントロールできていない人」とは限らない。その患者が直面している社会的状況次第では、そうして"みせる"のが最もベネフィットが見込まれ、リスクも少なくて済むことだってある。外来の医師や病院事務に対するコミュニケーションの効果を最大化し、失うものが何も無い場合にも、"わざと"怒りを感情的に表出をするのが最適な状況が無いとは言えない。

これは交渉術(下品な)の話であって心のコントロールの問題とは別の話になっている。書き手が問題の切り分けすらあいまいな程度の脳のレベルだということを表している。

 怒りの不適応な側面だけを強調して、怒りの適応的な側面を無かったことにするのは、事実の一部分を強調するあまり、他の一部分を見失っているか、特定の思想信条に基づいてわざと見ないようにしているか、どちらかだと思う。なんにせよ、それは娑婆世界の実情どおりの観察とは言えない。

交渉の話に付き合うなら、強硬に出るとか脅迫するという手は怒りの感情とは関係がない。脅迫が成功するのは自分が相手に危害を加える実力を持っていて相手にそれを防ぐ手段も逃げ出す手段もないときだ。


逆にちゃんと危害を加える手段を持っていると思わせられたら穏やかに要求しても恐がられる。そんな手段を持ってないと思われればどんなに怒り狂って見せても滑稽がられるだけだ。


怒りを見せつける交渉術と言うのは道義的にまともでないのは当然として、単純に相当低レベルだし破滅的だ。そんなもんを「怒りの適応的な側面」などというこの人は相当頭が悪いしモラルも低いのではないだろうか*3

必要に迫られた場合には、怒る、怒鳴る、キレることを厭わない人のほうが、のべつまくなしに怒りを避けている人より、よほど怒りの感情をコントロールして使いこなしていると思う

この馬鹿話に乗るにしても、それなら説明すべきは「必要に迫られた場合」というのは具体的にどういう時なのか、ということではないだろうか。


「必要なときにはするべき」と言う文章には何の情報も知恵も含まれていない。類似の言い回しで良く見る物に「過剰にするのはよくない」というものがある。


提供すべき情報は「どういうときが”必要なとき”なのか」と言う具体例、「どれぐらいからが”過剰”なのか」という定量的な数値だろう。


「必要に迫られた場合にはするべき」なんていう馬鹿な文章を書く人間が馬鹿じゃないことがあるだろうか?


前からこの人はこういうのがあまりにも目に付く。医師が馬鹿では困る。害が大きい。







前からずっと言ってることですが、
お釈迦様の観察と分析は精神科医のはるか先に到達しています。
2000年以上前です。


心をモニターする方法とは何かというと、もちろん瞑想です。
瞑想の本を選ぶコツをひとつだけ挙げるならマインドフルネスや我流アレンジの物を避けること。

*1:もちろん瞑想だ。xevra氏の言うネタではなくちゃんとしたほうの。

*2:誰よりも怒りっぽい自分達が何年も何十年も天下を取れない時点で何か間違いがあると気付いてほしいが。

*3:この人の怒りを見せる交渉術というのはどうも妄想や空論のような気もするが、もし実際に日頃からそうやって周囲にいうことを聞かせて「上手くいってる」人物がいるとすれば、それは別に交渉術が冴えてるのではなく、単に相手の立場がその人より弱いのだ。権力的に劣る部下や後輩や非正規職員であるとか、腕力的に劣る女や子供であるとか、経済的に依存せざるを得ない妻子であるとか、顧客に逆らえないサービス業従事者・出入り業者であるとか。