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インチキ批評家に付け狙われる細田守

とてもひどい細田守評を見て。

サマーウォーズ』の夏希は友達がいない?

サマーウォーズ』の篠原夏希は主人公の通う高校においてアイドル的存在ながら、美しいことと若いことしか取り柄がありません。

 彼女たちはみな、友達がいません。

 同性異性問わず、悩みを相談したり、話を聞いてもらったり、話を聞いたりするような関係の友達が一人もいないのです。

 篠原夏希に友達がいれば、自らのプライドのために夏希に気がある後輩に「恋人ごっこ」をさせることの残酷さを忠告されたでしょう

いったい『サマーウォーズ』のどこにこんな描写があったのでしょうか。
篠原夏希は性格は快活で人懐っこく強引、人を巻き込んだり頼ったりするのもお手の物で、要領よい人間なのは端々に描写されています。
おまけに剣道部に所属する学校のアイドル的な存在で容姿が飛びぬけていて運動も出来る。ジャンル違いであろう物理部の下級生すら気安い知り合いでパーンとドア開けて入ってくる交友の広さとコミュ力。
どこらへんに「友達がいない」なんて描写があったんだよ。
そんな邪推をする為の材料すらねーよ。


「劇中に友達が出てこないからこいつは友達が居ない」レベルのガバガバ理論をよくも臆面も無く署名入り記事でひり出せるものです。「しずかちゃんは男と遊んでるシーンしか出てこないから女子の間ではハブられてるいじめられっこ」というネタがありますが、この柴田英里さんは真顔でそのレベルの話をやっています。


ついでに、後輩に「恋人ごっこ」を頼んだのはプライドの為ではありません。こいつほんとに『サマーウォーズ』見たのかよ。
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健二は夏希との共依存のおかげで無邪気に頑張れた?

 『時をかける少女』は別としても、これら作品のヒロインたちは、「共依存スイッチ」を押しやすいタイプの女性として描かれているように見えました。

 細田作品の主人公の男性たちは、どこか、「つらくても恋人さえいればがんばれる!」と無邪気に思っているのではないでしょうか。細田作品は、「恋人さえいれば世界はなんとかなる」という無邪気な信頼によって成立していると思うのです。

健二のどこにそんなんがありましたか。夏希の涙に発奮するシーンこそありましたが(まるでアリバイ作りのように)、健二に窮地のガッツ・粘りを与えてくれたのは婆さんの根拠不明な信頼とハッパです。
明らかにあのお話は「恋人さえいれば頑張れる!」ではありません。


夏季はそういう意味のヒロインとしては最初から最後までポンコツです。健二がガッと変わるシーンやモチベーションにはあまり関わってきません。そもそも男性視線で魅力的に描こうという欲望や執着が感じられません。共依存に落ちていきたくなるような妖しさなんか皆無です。
細田監督が性的な執着を向けていたのはむしろ佳主馬です。
これも映画をきちんと見ていた人なら誰でも気付くことです。

夏季の若さと美しさが世界から賛同を得た?

彼女の行動に賛同し、花札の賭け金がわりの命を(アカウント)を託す大勢の人々が現れたことも、親戚のおじさんは「(夏希が)美しいからだ」と評すなど、典型的なトロフィーワイフです。

ちゃんと見ていればわかることですが、あのおじさん(万作)はそれより前のシーンから的外れなエロ話をするアホで、息子の嫁からも「何言ってんのこのエロ親父!」と罵られています。あそこで「(夏希が)美しいからだ」と言い出すのをギャグ台詞でなくシリアスだと受け取る人が居るとは。


「夏希の若さと美しさが威力を発揮して世界中からアカウントが託された」という風に監督が言いたいのであれば、それは万作に言わせるのではなく世界中の一人一人に言わせればいいでしょう。(各国語で「きれい!」「かわいい!」「萌えー!」と言いながらアカウントを持ち寄っていくシーンにすれば別の意味でなかなかしびれたと思います。)


繰り返しになりますが、この柴田英里さんというのは極度のアホか、『サマーウォーズ』をちゃんと見ず早送りかなんかで流していい加減な記事書いたか、どっちかですよね。


いい加減極まりない柴田英里

どうも見た感じ、友達が居ないとか共依存的だとか、言ってるイメージは大体『おおかみこども』に対するものでしょう。なら『おおかみこども』の話でまとめりゃいいのに、細田守をまるごと斬るスケールを出したいとか、自分の思想的ポジションへ我田引水したいとか、そういうよこしまな動機でいい加減なことを書いている。


まあ『おおかみこども』に対してですら的外れなんですけどね。

娘の雪も、出自や思春期の悩みを抱えてはいますが、彼女の悩みは「好きな男の子に受け入れてもらえた」というただ一つの理由で雲散霧消してしまいます。

はあ?
草平は雪の「好きな男の子」ではありません。「雪の擬態を半ば見破ってしつこく絡んできた子」「学校に上がってから初めて自制をしくじり狼の姿を見せて傷付けてしまった相手」です。
やがて仲良くなった草平も実は家庭問題で疎外されて辛い境遇だったこと、しかしそれを隠さず笑いを交えて雪に全部話してしまうこと、それらで雪も勇気付けられて自分の疎外感のもと、狼の体の秘密をさらけ出すわけです。


あの夜よりずっと前から草平は雪のことを受け入れています。雪が姿を晒したのは一か八かの賭けではなく(そういう意味での緊張はしていません)、「受け入れてくれる人に姿を晒す勇気をようやく得た」というに過ぎません。
受け入れられるかどうかの話は既に通過しており、それでも悩んでおり、夜の校舎のクライマックスは親しい友達の勇気や人生に対する姿勢を見てパラダイムシフトが起きるという話でしょう。


悩みは雲散霧消なんかしていません。ずっと人生の重荷であり続けます。狼人が人間社会で生きていく以上、どこかでドジを踏んで父のような非業の死を遂げる可能性は大いにあります。


メタファーがどうとかゴニョゴニョ言い出せばあれを恋愛だったと言うこともできるでしょうが、そんな恋愛恋愛した描写ではないし、あの関係は草平が女の子でも何の問題も無く成り立ちます。
あのあと草平は少しでも早く自立する為の進路を選んだでしょうし、雪は全寮制の中学に進んで、恋人関係どころか会うこともないでしょう。


以上、こんなの長々説明しても面白くないんですが、色恋で悩みが雲散霧消とかいう柴田英里の説明がどれだけ酷いかはわかってもらえないでしょうか。絶対映画見てないか脳機能に何かが起きてるよねこの人。

 細田作品の主人公の男性たちは、どこか、「つらくても恋人さえいればがんばれる!」と無邪気に思っているのではないでしょうか。細田作品は、「恋人さえいれば世界はなんとかなる」という無邪気な信頼によって成立していると思うのです。

あの狼男はどう「なんとかなった」んでしょうか?女をダメにして自分もダメになって無責任に先に死んだだけじゃねーか。
監督が「花の恋人」視点であれ作ったと思うんですかね?一体どういう欲望、どういうロマンなんだよ。
そういう風に無根拠な論評でいいなら、私はあれは「花の子供」視点で作られてると思います。


その見方で言っても批判を付けられるポイントは色々あると思いますが、この柴田さんはもうとにかく赤点です。映画見る能力がないんだもん。批評なんかする資格もないでしょう。


吸引力を増していく細田守

細田作品が批判される論点、異議を呈される論点というのは無数にあるでしょう。引っかかるポイントがあるのはわかります。しかしこれは結構微妙な部分にあって、言葉にするのは簡単ではない。その難しい仕事は曲がりなりにも作品と向き合ってきちんと見た人間によってなされるべきです。


柴田英里のように最初から固着したポジション・思想ありき、映画の重要なポイントすら記憶ボケボケ、もしくは最初から能力がなくてろくに読み取れてない、もしくはちゃんと見てすらいないのに見たように振舞ってる、そういう手合いの拙いインチキ批評は必要ありません。


時をかける少女』は何度も見るような面白さも無く、ツッコミどころもありませんでした*1。『サマーウォーズ』『おおかみこども』と回を重ねるほどツッコミ吸引力と共に面白みが出てきて、危険な感じもマシマシです。(作品はヤバくなる一方なのに商業的なアンパイ巨匠扱いが固まって来てるのも笑える。)
細田守作品は間違いなく面白いんです。


その栄養価の高さから、今回のクソコラムに限らずどうもやたらとハイアングルかつインチキな批評のぽんぽん付くのも細田守作品の特徴です。
しかしそれらは却って本当に細田につけられるべき批判から遠ざかるだけの雑な調理であり細田守の面白さヤバさを解体できないウンコ。
有害無益なのでこの世に必要ありません。






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(ちゃんと見てる人がちゃんと突っ込めばずーっとずーっと面白いよな。)

*1:まあ「あんな踏み切りデッドエンド坂ありえねーだろ」みたいなのは色々あるんですが