『うつくしい子ども (第68回ちばてつや賞入選)』の間違ったパース
ちょっとしたパースの間違い
P5
P6
P6左上のコマを見て欲しい。
ここは床に寝る弟から机で勉強する主人公を見ているので煽り構図の筈だが、主人公と机は俯瞰の角度で描かれている。ロフトベッドでもないようだし、絵の視点が統一出来ていない。
この位置関係の弟の視界には姉の脚や身体が入るだけで勉強している手元は見えない筈だが、カメラを弟の頭の後ろに置きながらそのような本来ある弟の視点は再現されていない。
これは意識されたにせよ無意識にせよとても効果的だ。一見単なるパース間違いのようだがそれ以上の暗黙の情報を伝えている。カメラが誰の背後にあっても、この話で主人公を見ているのは一貫してもう1人の主人公、もしくは大人になった未来の主人公なのだ。
ここをもしきちんとした弟視点の「なにをやってるのかよくわからない姉と机の裏側を見上げる構図」で描いてしまったら一気に弟が主人公格に入り込んでしまう。ページ数から言ってもテーマから言ってもここは正しいパースを描いてはいけないのだ。
正しくぞんざいに扱われる弟
弟が主人公の成長アイテムのように無抵抗に死んでいくのを訝る声が感想にあったが、この姉からすればそれ以上弟について思い出せる情報が無いのだ。
この姉は自分の未来のための勉強に精一杯だった。
P10
帰宅時に父親が帰ってきていること、毎度の夫婦喧嘩がおきていることを察知して玄関でUターンし徳ちゃんのところへ逃げるシーン。こういう時にきっと家の中にいた弟のことはまったく描かれない。
自身が一杯一杯なこと、勉強という打ち込む物を見つけたが故に弟のことまで心配するキャパが無いのだ。未来という活路が見つかっていなければもっと弟のことを見ていたかもしれない。
最終的に弟は何考えてたのかまったくわからないまま消えてしまう。
p23
自分と同じ気持ちを抱える同志だったようにも描かない。
見ていなかったのだからよくわからないまま死んでしまったのだ。
いちおう弟の死の動機を主人公なりに説明するコマがあり、自分も川に入ってみた後ずぶ濡れで徳ちゃんとつまんない会話をするシーンがあり、「こども」という括りで弟のことも考えてるような格好は描いているが、実際のところ弟について情報が無くよくわからないことをとっくに無言で白状してきている。
そしてそれが絵一枚で出ているのが冒頭P6の不思議なパースだったのだ。
まとめ
作者はまず取捨選択が正しい。たとえばもし主人公や徳ちゃんが「弟の身になって」憐憫に浸ったり母親の気持ちを慮ったりしだしてたらべっちょりした収拾のつかない駄作になっていた。
逃げ場がどうこうについて徳ちゃんと話し合うシーンは喋りすぎで蛇足だし、あそこで口で説明していることは描写で説明すべき&その力が作者にはあるけれども、思春期の人間や切羽詰ってる人間特有の主観過多の世界(やそういう時代の思い出)の迫力は言葉を使わずに表現できている。
こういう人が描く漫画はどんな話でも面白い。
これが出来てない人の描く漫画はどれほど話が凝っていてもまるきりつまらない。
春田りょうは期待出来る作家だ。