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山田尚子監督のマイルドな反逆  映画「聲の形」完成披露上映会レポート

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koenokatachi-movie.com
映画「聲の形」完成披露上映会を見て来ました。
ネタバレが大量にあります。
試写会的なもの行ったの何年ぶりだろう。



結論として、なんでしょう。
微妙です。
尖った感想を言いがたい。
凄いよかった!とは言えないですが悪くもなく。

1.改変orカットされた部分

自主映画製作

一切なくなりました。
原作でも存在意義が微妙な部分でしたし、映画に入れるには尺を取りすぎますし、妥当だと思います。

進路関係

一切なくなりました。
映画の中では学年もはっきりしてなかったと思います。原作での進路関係は読み切りから大きくつけたされた部分であり、たぶん原作者の環境の変化によって新しく作られた部分であり、原作者の思い入れの強い部分だと思いますが、しかしここも個人的には切ってよかったと思います。
映画版にふさわしくないと言うより、原作の時点でも、長い期間を掛けて描いた物語特有のテーマの分散・間延びの部分(よくいえばライブ感ですが)になっていたと思うからです。
進学を控えてわけわからんことしてる不自然さもなくなりました。

夜の迷子

硝子は夜道を出歩きませんでした。
元々原作の時点で強引でした。日ごろから家出癖のある妹を、それも家出後数日たってから、雨の振る夜中に突然探しに外へ出る女の子。母親に何も伝え置かず携帯も持たず、0時を回った深夜に町の人けのない場所をフラフラ探している、という不自然な展開だったので。

ハイテンション演出

「命を燃やし尽くしたいと思ってる!」とか言いません。
迷子がないため、夜道での将也と結弦のシーンもぐっと落ち着いた会話になっています。
将也は吠えたりせずボソボソ会話します。(というか映画の将也は全然吠えません)。
原作にはない傘の使い方をし、硝子は全く出て来ません。
硝子達の母のビンタも出てきますが、ローテンションな現実的なビンタです。

ハードだったり暴力的だったりするシーン

このシーンに限らず、原作のハード目なシーンが色々マイルドにされていました。
硝子との再開シーンでも転びません。
結弦はドロップキックしません。お風呂シーンは(妄想も含め)ありません。
「うきぃ!」も止まってる将也にすぐそばで「うき」です。
植野の暴行も静かです。とらどらみたいなグリグリ作画で展開されたりしませんでした。
真柴がパンチしません。

硝子達の母親の過去

一切なくなりました。
まあやってる暇はないでしょうし。
原作でもクリシェっぽくてどうかと思う部分でした。
完全なる悪役でしかない硝子の父親と祖父母達もいまいちで。

小学校担任のクズっぷり

一切なくなりました
原作ではかなり不自然な怠慢とクズさを見せ付けてた担任ですが怠慢描写クズ描写ゼロ。
喜多先生の偽善的な態度と無能さもカット。

結弦と母親の確執

なくなりました。
よく怒られてる、ぐらいで。誤解し合ってるような部分も薄く。

真柴の内面

一切なくなりました
事案にあたるような乱行や暴行も一切カット。
原作でもイベントのためだけのNPCのような、とって付けたような過去と話に都合のよいキレ癖のON・OFFがあり、切られたことが惜しくはない箇所です。

植野関係

色々なくなりました。
小学校時代のいろいろ、太陽女子、佐原との関係、ネコ耳のドアップ、猫カフェでのやりとり、家まで送らせる、家に来る、病室であれこれする、過去の回想。
原作では人気あるシーンも多かったと思いますが、原作で暴れすぎだったともいえるので悪くないかと思います。

硝子が別の学校でも受けてたいじめ

なくなりました

げんきくんやデラックス

そりゃなくなるわ

2.何で残したの?な部分

真柴の存在

内面が全くなくなったので、原作以上にいる意味がわかりません。ほんとに唐突に「友達になりたい」と寄ってきて他意もなく、橋でも「あれはひどいよ」「友達になれたと思ったのに」と常識人過ぎるコメントをして去っていくだけの人です。悪い人じゃないけど、この人何の為に居るの。

佐原の存在

中学時代とか太陽女子とか休日のお出かけとかばっさりカットなのでほんとになんなのかよくわからない人になりました。将也や硝子や結弦達と橋でだんだん仲良くなる過程もほぼ描かれず。原作では作者の思い入れ(美術的な手に職でのし上がる…)が暴走気味だったのに対し、映画ではかなり要らない子に。

結弦の不登校とか

母親の無理解とか確執とかがなくなった以上、やる意味ないですよね。まああっさりしてましたが。

西宮祖母の死

同じ理由で、別に生かしてもよかった。葬式のオリジナルシーンがやりたかったのかな。

170万を燃やす

原作でも本筋にあまり関係ないシーン。映画は将也母にウエイト置きたかった?

にゃんにゃんカフェ

原作と違い何も起こらないので何しにいったのかわからない。

飛び降り自殺関連

無駄にハイテンションなものやいたずらにハードなものを除く、というところに唯一製作者の方針みたいなものを感じたのですが、自殺はきっちりやりました。
1番要らないとこだと思うんですが。このノルマさえなければ、もっといろんなことを落ち着いた別の形に出来たでしょう。ただこれは「盛り上がりどころ」として商業的要請が強いのかなやっぱ。

3.何の為に足したの?な部分

硝子の右耳聴力が死ぬ

硝子の右耳の聴力が死んでるらしい、という設定は原作でも存在意義がいまいち不明な部分でした。(おそらく将也が怪我させたのが遠因となって死んだ、という設定があって没になったんだろう、ぐらいしか考えられません)何故かそこが掘り下げられ、医師に宣告されて落ち込むシーンが追加されています。

田んぼを自転車で往復するシーン

やたら往復します。ここでリズムを取りたいのかなんなのか。

小学校時代の植野のシーン

原作にある部分が結構切られたのに、なかった部分が色々足されてます。
このキャラが気に入ったのかな。

4.監督は原作にあまり感心しない?

なんだろう、山田尚子監督は実は原作を好きじゃない、ちょっと嫌いぐらいなんじゃないかと言う気がして来ました。すごくクールな目で素材として見詰めてると思います。

原作のあくの強いとこ、ちょっと下品な展開とか、読者を嫌な気分にさせて関心を引き込むようなテクニックとか、そういうのを片っ端から脱臭してあるんですよね。サラッと見られる聲の形になっています。鳴り続けるピアノとともになんか回想される遠い幸せな記憶と言う感じ。全編に渡って。

台詞も結構細かく変えるし、原作を一旦殺して自分の慣れてるやり方でやり直すような作り方。「お前のやり方は下品なんだよ!こうだ!」ぐらいの感じを演出にも脚本にも感じました。

原作の匂いを再現する気は薄いですね。自分のノウハウに強い自信とこだわりがある。細かく付け足されたものが多かったのは植野ですが、ただカットされた真柴や佐原と違い、意思を持って別の物に入れ替えた感があります。「いまの女子高生はもっとこういう喋り方をするんだよ!」みたいな。「硝子と仲良くしなきゃいけないって理由はないだろ!」とか。

いや、やっぱり監督は原作好きじゃないんだと思うなあ。好きだったらこれだけ「それは違うよ」という声だらけの映画にはならない。

私は原作に最終的には色々疑問や不満をもった一方、少なくとも絵や芝居はかなり好きなのですが、いろんなシーンで仕草や芝居がこつこつ変えられていて、そういうとこもほんとうに、再現する気なんか全然無いなと。

5.結局何に焦点を絞ったの?

単行本7冊分の漫画を約2時間の映画にするのはそもそも企画の時点で無理はあります。
である以上は、劇場版をきちんと独立した作品として成立させるためには、監督に明確な方針と決断が必要でした。「ここを大事にするぞ」「ここはガッツリ切るぞ」という。


結構切ってますし、変えてますし、細かい1個1個のレベルに「そのやり方は私は好きじゃないな!」みたいな監督の声は確かに感じたのですが、全体として何を描くからここはカットする、とか、全く新しい物を作る、とか、そういう意志や決断は感じませんでした。権限的にそんなことが出来るのかも謎ですが。

6.明確に欠点と言えそうなところ

やっぱり駆け足駆け足

そういうわけで、細かいカットや改変の意志は旺盛であるものの、大きいカットや改変はなにもないのが映画「聲の形」です。
だからとにかくシーンの繋ぎが駆け足。溜めるシーン入れてる場合じゃないし。カットの中でも掛け足。喋りだす前に言いよどんだり喋り終わったあとにカメラが回り続けたりするような余白や余韻は乏しいです。どんどん動くし気まずいシーンもみんなどんどん喋る。シンゴジラみたい(言いすぎ)。
ここはやっぱり欠点と言っていいと思います。より大きいカットと再構成をする決断が必要だった。

原作の省略のよさは死んでる

原作は「主人公か結弦の主観の届かないところは描かない(だから主人公と結弦以外はモノローグも出ない)」という面白い試みで描かれた漫画でした。かなりの部分を読者に想像させる仕組みがあった。映画でそれを再現するにはまた少しアイデアが必要でしたが、そこが取り組まれなかったのは残念だと思います。視聴者に描かれていない部分を色々想像させるような工夫は全くありませんでした。むしろたまに必要性の不明なことを説明する(猫カフェで慌てる植野とか)。

7.まとめ

なんでしょう。あんまりまとまりません。
映画で原作にない出番がつけたされてたのは主に永束くんと植野でした。
やっぱり動かしやすいんですかね。というか他のキャラがよく考えると究極的には実は居なくてもいい感じなんですよね。原作の時点から。
これ原作未読でいきなり映画見た人は理解できるのかな。
真柴とか佐原とか意味がわからないんじゃないだろうか。川井はエグみの意図的脱臭の影響をもっとも強く受けてるので、映画だけ見た人からすると普通に善人サイドですよね。


とりあえず備忘的なメモと、書きながら考えたまとまりのない雑感です。
後でもう少しまともな感想や考察の形で纏められるかも。



 
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